地下うさぎとsanのブログ

いわゆる一般的な生活風景と一般的でない生活風景を楽しく綴りたいと思います。解釈はご自由に!

長い出来ない椅子

私は愛煙家だ。

 

若いころは一日3箱吸っていた。

 

子育てに突入したら休止して、子育てが終わったらまた開始。

 

出来れば無農薬の煙草を希望していた。

 

 

その間色んなことがあった。

 

離婚したり再婚したり。

親をみとったり、こどもを一人失ったり。

 

自分のことも調べ上げたりあの手この手を尽くしたような気がする。

 

 

禁煙中、体の調子はどちらかというと悪くなった。

 

まあ、子供時代にくらべればずいぶんよくなったかな。

 

 

目に見えて悪くなったのは甲状腺

 

首回りがとても大きくなり、いつもマフラーをまいているようだった。

 

特に事故のあと、度重なる検査のたびにひどくなった気がする。

 

 

子供が成人して、煙草をスパスパ吸い始めたのを見て

もういいかなと思っていた。

 

面白いことに、「これいいよ」と息子がもってきたのは

無農薬の煙草。

 

これには笑ってしまった。

 

お許しがでたな、と思いスモーカー復活!

 

 

面白いことが起きた。

 

いつのまにか身についてしまった「煙草はよくない」という既成概念とはうらはらに

 

あんなに腫れていた甲状腺

どんどんしぼんでしまった。

 

あ、これは喫煙を勧めるものではないので誤解のないように(笑)

 

 

ついでに面白いことが

まだまだあるかな、とちょっと楽しみにしている。

 

 

一日の本数は不思議に6本で収まる。

増税もあまり響かないかな(笑)。

 

ところで、

 

喫煙所を探すのが昔ほど楽ではなくなった。

 

このごろ改装したデパートにはきれいな喫煙所ができたので

ほっとしてはいるが

 

そこにある椅子に関しては閉口している。

 

 

というのも、写真のこの椅子。

 

一本吸い終わるまで

おケツが痛くなって座ってられない。

 

 

禁煙ブームは健康増進とはいうけど、

わたしにとってはMRIに何度もぶち込まれるほうが

不健康だ。かなり。

 

 

私にとっての健康増進はほかにもあるけど

喫煙はかかせない。

 

煙を吹いて気分転換するのは

ストレス解消に必須だ。あ、私にとって、ね。

 

 

せめてこの椅子。

長い出来ないものではなく

リラックスできるものにかえてくれると

他の人は案外本数減るんじゃないの?

 

 

あ、わたしは変わらないかな(笑)

 

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長居できない椅子。これに座って一本すうのはしんどい。

 

韓国のドラマとか

若いころはドラマなぞは全く見向きもしなかった。

 

特に恋愛ものは、見ていてイライラするし

気が短いので耐えられない(笑)

 

どちらかというと、アクションものが好きで

時代劇とかバッサリやるやつが好きだった。

 

そのうちそれにも飽きてしまって、ドラマも映画も全く見なくなった。

 

しかし、今はすっかり韓国ドラマや映画に

どっぷりはまってしまった。

 

人生いろいろあって、この超短期な性格も

すこしはゆとりがでてきたのかも(笑)

 

なにより相談業務が長かったので、ちっとはねばりもでたかな。

いや、どちらかというと刑事みたいにねばって張り付く性格で、

淡々と調査なぞしていくうちに、プロセスの面白さが

わかってきたのかもしれない。

 

きっかけは、相方が韓国の時代劇ドラマにはまってしまったところから。

 

一緒に見始めたのは高麗前期の時代ものだったが、横から見ていてなぜかすっかりはまってしまった(笑)なにより向こうのアクションの動きがよい。

あ、ここはかわらないかも(笑)

 

 

でもこのドラマからが「メッセージ」だった。

 

 

若いころ映画にハマったとき、かなりのメッセージをもらった。

 

でも、それを感じられなくなったとたん、「縁」が切れたように

見ることも面白みを感じることもなくなってしまった。

 

時折、数年に一回かそこら

見たいな、というものがあらわれても

残念ながら日本のものではなかった。

 

 

韓国にはじつは思い入れがある。

よくも悪くも、深い縁があるのだ。

 

 

今は金欠なので海外に行こうという気にはならないが

いつか訪れるべき場所はわかっているので

 

その時がくるまで、のんびりドラマや映画でみさせてもらおう

そんな気持ちでいる。

 

 

見ていて思うのは、ただの恋愛ものもあるんだろうけど

その中に必ず「生活」「民族としての所属意識」「伝統」「国政」「社会状況」

そんなものがしっかり反映されたものは本当によくできている。

勿論がっかりするやつもあった。5分ほどでお終いにしたのも何本かある(笑)

 

日本のドラマに面白みを感じなくなったのは、これらが薄く感じるからかもしれない。

 

 

実は私も一時期舞台にたっていたんだけど、役者としてみたときに

「つくりかた」がとてもうまい。

 

 

すべての俳優さんたちがそうとは思わないが、民族的な表現方法が

さらに臨場感をますのを感じる。

 

日本人にかけてしまった「日本人らしさ」。

 

「日本人にあった伝統や生活様式」。

 

 

これはどの民族にも「らしさ」があるからこそ、互いに認め合える「良さ」がうまれるんだけど、ここが不明瞭だと、どんなに力んで演じてもその役に「実態感」を感じられないと思う。

 

ところで、韓国ドラマの中で日本人がでてくるとき

ちょっと笑ってしまったことがある。

 

時代劇だったんだけど、日本人女性として着物はきてるんだけど

なぜか履物が下駄。

舞妓さんか花魁のイメージが強いようだ。

 

たびも履いてないので、なんとなくお粗末になってしまう。

武家の嫁さんにはミスマッチな姿で、シリアスな内容がお笑いになってしまった。

 

 

でも、古くからよくも悪くもかかわりのあるお隣の国だということが

とてもよくわかる。

 

 

どうぞ仲良くなって、

それぞれの良さで

もっと良い世界をつくってゆけるようになることを

心から願っている。

 

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行きつけの韓国料理店で。韓国の茶わん蒸しはでかい。



四方参り

別にやらなくてもいいんだけど、もうすっかり習慣になってしまった。

 

 

「四方参り」

 

 

いたって簡単なもので、本当にふるくからあるようだ。

 

わたしたちのおばあちゃんくらいまでは、

たぶん日常見られた姿だったんではないかな。

 

朝起きたら、手を合わせて「東の神様、南の神様…」と四方に向かって

お辞儀をしてゆく姿。

 

わたしにとっては、ひとの美しい姿のひとつとなっている。

 

それをしないと何か悪いことでもおこるのか

ということではない。

 

やらなくても特にどうということはないが、

 

一日の始まりに

朝日が昇るときに四方参りをすることは

 

わたしにとって、

今日一日を迎えられたこと。

今日一日を送ること

 

これらにまずは感謝する意味があるので

四方参りを欠かさないほうが、一日が気持ちよいのだ。

 

 

なんのご利益があるとかないとか抜きに

 

まずは感謝してみることは

 

なぜかわたしにとっては喜びになっているみたいだ。

 

 

朝、東西南北に手を合わせて一日の始まりの感謝をする。

 

よろしければあなたもどうぞ。

 

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昨日の友は明日も友

鑑定士をしていたころ。

 

 

この頃の若いやつにしては、なかなか素直ないいやつがいた。

 

志をもってこの世界に入る人は多いだろう。

 

ああ、この頃は

 「知識がなくても大丈夫!初心者歓迎・占い師」なんてのもあるから

 昔のように「志」もくそもない人も残念ながらいるかあ。

 

 

私の場合は、このみょうちくりんな体質から自然とその形になっていったんだけど

 

いわゆる「霊能者」てきな世界に、いざ入ってみてびっくり。

 

 

むしろ愛のない人が多く、力争いがあったり

 

「導く」というより

 

「支配」だね。全く。

 

 

学ばせてもらおうと、ご縁のあったところで頑張ってみたけど

私の場合は、かみさまたちが危ういところで

ストップをかけてくれたので助かったかな。

 

 

でも、これは私の人生においては

とても大切なステップだったと思う。

 

 

一所で学んだのではないので、すべてのその系列の人たちがそうとはいえないし

実際、向き合っただけで「つつまれるような」あたたかさをもった

それは素晴らしい人もいた。

 

人の姿を「みせられた」というべきかな。

 

ちなみに「やつ」と出会ったのは、お世辞にも

愛のあるところとは言い難いところだった。

 

珍しく清楚で、素直な人柄だったが

所属していたところの主旨がだんだん本来の軌道から外れていくにつれ

やつはとても苦しくなり始めたようだった。

 

ここにいるとだめになるよ

なるべく早く、ここをはなれなよ

 

わたしが去る前にやつに伝えたのは、この言葉だった。

 

鑑定料で生活をしようと思わないほうがいい。そこが自分にそぐわない場所だと気付いても、お金に縛られて切り替えが効かなくなるからだ。

 

本来の役割を離れず、一心に歩んでいる間に

気が付いたらそれで飯を食ってたくらいの

「この役割に対する誠実さと大切に思うこと」

 

 

これが施術者とそれに関わる人両方を守る道ではないかな。

 

 

 この世界は、つつみ隠せない「波動」の世界だ。

 

よほどしっかり、自分を保てないと動機も変わってくる。

そして恐ろしいのは、そのことに気づかないまま

自分を失っていくことだ。

 

残念ながら私の直接の師ではないが素晴らしい人がいた。

この大変さを熟知されていて

「俺がおかしくなったら、すぐに縁を切れ」と言われていたそうだ。

 

 

こんな「男前」な師匠に学んでみたかったもんだ。

 

 

自分では間違ったことはしていないつもりでも

こと、この見えない世界においては自分の奥底の動機を

常に見抜いていなければ、次の一歩は全く違う道に踏み込んでしまうのだ。

 

 

今は、そのことを厳しく指導するところは少ないようだ。

 

 

自分を見抜くことは苦痛も伴うし、自分自身への拒絶も生まれるだろう。

 でも、これは生きている間注意し続けるべきところだろう。

 

 

 ただ、技術だけをもらえばよいというものではない。

 

 

多額の授業料を払ってエネルギーワークやそのたぐいのものを使えるようになったところで、それを使う自分の扱いがわからなければ、悲しい結果になる。

 

ちなみに、そこに「お金」という別の目的が存在するなら

そのお金が施術にたいしての同等のエネルギーとして存在するものであれば

互いに生かしあうものになるだろう。

 

 

わたしはこれから先、良い人たちが育つことを願っている。

 

やつのような人が、本当はしっかり育って

よい導き手になってほしかった。

 

こころを壊さずに

元気にしてるかなあ。

 

心の淵に沈んでも

ちゃんと立ち直って幸せになってるかなあ

 

 

今日はふとそんなことを考えていた。

 

 

まあ、でも、若い人たちにはエネルギーがある。

私も昔は若かったんだけどさ(笑)

とりあえず、やつは きっと大丈夫だと

信じることにしている。

 

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9月の終わりの夕焼け

 

お彼岸はお客様がくる

このところ、連休続きで日にちボケ。ついでに給料もへるので、意気沈床。

 

夏の疲れもあって、このさいゆっくり休みたいと思っていたが

 

なかなかこの、ささやかな願いはかなわないものだ。

 

 

夜はできれば10時にはふとんでゴロゴロしたいのに、

相方がトドのような体を布団の上で横断しているので

私の寝るスペースが確保できない。

 

 

しかも強烈ないびきをかくので、私は長いこと不眠症になってしまった。

 

体調を崩したのを見て、少し申し訳なく思ったのか

 

「いびき防止装置」なるものを、およそ一万円近くかけて購入。耳に引っ掛けて寝ていると、いびきの音にセンサーが反応し、いびきの主をおこしてくれるというものだった。

 

数日よさそうに見えたが、だんだんセンサーにも慣れてきたのか、

肝心のいびき主は反応せず。

 

代わりにいびきとセンサーのビービー言う音に、

私がダブルで苦しむ羽目になっていた。

 

因みに

 

盆や彼岸は必ず訪問客がくる。

 

子供のころや、意味が分からない若いときは、

お陰様で不眠状態がしょっちゅうだった。

 

今は付き合い方や何かがわかってきたので、幾分良いのだが

相方のいびきだけはどうしようもない。

 

こいつの鼻と口をふさげば静かに寝れるんだけど、そういうわけにもいかないから

愛情込めて、けりを入れることにしている。

 

でもお客さんが来ているときは、ほとんど動けない時があるので

ほんとに困ったもんだ。

 

お客さんとは

 

ひとであれば「仏さん」。

 

人でなければかみさまか、そのたぐいだ。

 

今日は人が三人。かみさまが「おひとり」様。

 

 

人は以前ここに住んでいた方々のようで、なかなか明るい人たちだったので

今年のお彼岸は軽くすんだようだ。

 

そのうちの一人は子どもだった。

 

もういったかなと思ったら

退屈だったようで、「おばちゃん、遊ぼう」といって戻ってきた。

 

かんべんしてくれ

 

なのでおばちゃんは疲れてるから、おばちゃんのそばにいる

かみさまたちに遊んでもらいよ、とそうそうに寝かせてもらった。

 

ここはずいぶん古いアパートなので、致し方ない。

 

きっとここの暮らしがよかったんだろうし、

亡くなって引き上げられたときに

引っ越し先の家が分からなくなったんだろう。

 

良くあることだ。

 

なぜそう思ったかというと、夢の中で探し物をしていたからだ。

 

もうそのものは勿論ないんだけど、彼らはありました!と言って

喜んで帰っていった。「お邪魔しました」とあいさつする当たり、

なかなか礼儀正しい人たちだ。

 

引っ越ししたり、年寄りが住んでいたところを引き払うときは

かならず、挨拶をしていってほしい。

 

「今からどこそこに引き上げるから、必ず一緒に来てね」

 

これだけでいいんだけどね。

 

だまってさっさと荷物を処分して、仏壇を移したり、処分したりはアウトですぜ。

 

これも唯物的既成概念教育の汚点だ。

 

彼岸やお盆は「動く」ものだ。

 

長きにわたってこの国では、そういう文化ができているので

 

ここは大切につないでほしいもんだ。

 

我が家は越してきて三年ほどたつが、そろそろ色んなものがおさまるといいな。

 

そうすると仏壇もちゃんとつかえるようになるから、

 来年のお盆と彼岸は少しはらくになるかなあ。

 

あとは

 

相方のいびき。

 

これも少しは静かになることを

 

心から願ってやまない。

 

 

今年はせっかく「お客様」がきたけど

なんのおもてなしもしなかった。

 

なのでここで、スーパーで用意したお供え物の写真なぞ

心ばかしですが、と「供え」させていただこうと思う。

 

来年はどうぞご家族の元にいかれますように~

 

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こころばかりのお供え物

 

地下うさぎ

始まりのトンネル

 

それは大好きな昼寝の時だった。

 

調子が良くてまどろんだものではなく、残念ながら体調不良での「ぶっ倒れた昼寝」だった。

 

このところ色んなものが変化し動いているので、ついていくのは大変だ。

 

特に彼岸前のこの季節はいつも鬼門になってしまう。

ちなみに去年は入院までさせて頂いた(笑)。

 

 

今年は入院したくないので、今日は何があっても寝てやるという意気込みで家に帰り、さっそく布団に入ってすぐだった。

 

私は石の積み重なった「エレベーター」に乗ろうとしていたようだ。

 

 

その石というのは、決して小さくなく、どちらかとうと「岩」。

 

でもなぜか重厚感がなく、なんだか不思議な「石」だった。

 

 

積み重なった石の間に、なぜかウサギが何尾もいる。

 

多分大きいうさぎで、一羽がひとのからだの半分もあるようなやつだ。

 

 

乗る、という表現が正しいかどうかわからない。

 

そのエレベーターについて動くという感じもする。

 

石の間にいる大きなうさぎたちは、石に挟まれているわけでもなく、やはり

石と一緒にいる」という感じだ。

 

 

最初は上に上がるのかと思ったら、「エレベーター」は下にぐんぐん降りて行った。

 

よくは覚えてないが暗いところに降りていくようではない。

 

 

そしていつ着いたかも覚えてないが、きがついたらちょっと壊れた「絵」のような街の一角にいた。

 

なぜか「床屋」の前だった。

 

昭和のはじめ頃のような雰囲気で、すこしセピア色がかった色調にみえた。

 

まるでわら半紙に描いた絵のようだったが、その輪郭は少し歪んで見えた

 

 

目が覚めて頭に浮かんだのは、「岡山の千日前商店街」。

それは私の育ての親が子供時代をすごしたところだった。

 

 

ここで間が覚めたわけだけが、頭に張り付いたのは

大きな牡丹餅みたいなうさぎたち。そして歪んだ景色。

 

でもいままでみた「過去の景色」とは違うもので、うさぎも初めてだった。

 

 

「なんだろう」

 

そう考えていた時に、「地下うさぎ」という言葉があたまのなかではじけた。

 

 

数日前、妙な流れがあり、この時は事故があちこちで起こった。

 

そのまま少し前は、列車事故もあった。

 

 

「何が起こっているか教えて!私にわかるように!」

 

 

私は「家族たち」にお願いしていたことを思い出した。

 

 

これがわたしと地下うさぎとの最初の出会いだ。

 

なにがどうなるというものでもないんだろうけど、

 

地下うさぎたちはどうやら私の「なかま」のようだった。

 

 

こんど会うときはどこに連れて行ってくれるのか

楽しみにしている。

 

そういえばもうお彼岸じゃん!

 

今年のお彼岸はどうなることやら。

 

 

連休だけど、私は静かに家で潜んでいようかなと思っている。

 

 

実家のお参りは

お彼岸がおさまってからにしようっと。

 

 

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壱岐荘の窓から

 

ブログかきはじめ

 

ブログは何度も挑戦してきた。

 

けれども、何を書いても嘘っぽくなり、納得いかず中断。

 

私の書きたいもの、伝えたいものではなかったからだ。

 

それで悶々とした日々を繰り返してきたが、ようやくピントが合ったようだ。

 

 

今日からこうして色んな事をお伝えできる事をこころから喜んでいる。

 

私も、「家族たち」も。

 

縁あって出会った方々に

 

心から感謝するとともに、決して理解を求めるものではない事もお伝えしたい。

 

 

私と「家族たち」としては、受け入れられることを目的としていないからだ。

 

また、正しい正しくないという健在意識的な評価も望んでいない。

 

 

読んで、楽しんでいただければ十分!

 

そして同じ空間にいられたことに、また感謝!

 

 

あなたの人生が、私たちの人生のように、ゆたかでありますように!

 

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私の魂のふるさと・壱岐